正しい事業は全部、串カツ田中が教えてくれた【前編】

  • 上場企業の社長に聞く! 夢とお金の本質・串カツ田中 貫啓二社長 / 貫 啓二

白いテント看板に「名物串カツ田中」の文字。赤と黄の提灯が並び、にぎやかな中の様子が見えるガラス張りの店舗。関東圏を中心に多店舗展開を進める「串カツ田中」の店に、見覚えがある人もいるだろう。貫社長は、大企業を辞めてバーやレストランを経営し、最後に行きついた串カツ田中で事業とは何かを知ったと言う。串カツにほれ込んだ貫社長の成長ストーリーを紹介する。

大企業を飛び出して15坪のバーを始める

意外に思われるかもしれませんが、串カツ田中の「田中」って、私ではなくて副社長(田中洋江さん)の名前。彼女の父親が作っていた串カツのレシピが、うちの店のルーツです。田中はいまでは仕事の右腕ですが、もともとは私が10年間勤めたトヨタを辞めて、大阪でショットバーを始めたころのアルバイト第一号でした。大手広告代理店に勤務していたしっかり者の女性で、私の友人の紹介で店に来て、最初から「トヨタ辞めて、バーを始めたけど儲からない? 家族がいるのに、大丈夫?」とめちゃくちゃ突っ込まれて(笑)。その後も「このままじゃダメ」と言われ続け、小さなバーの店主だった私が、「どういう店をやりたいか」を真剣に考えるようになったんです。

私は最初に就職したトヨタで物流のカイゼンに携わっていたのですが、仕事に慣れてくると、「大企業の中で細分化された仕事をこなして、一生が終わるのだろうか」と疑問を抱くようになりました。ちょうどそのころ、週末に知人を集めてバーベキューやスノーボードなどのイベントを主催していました。SNSがない時代ですから、知人をつなげて遊ぶイベントは喜ばれてどんどん人が来てお金も儲かる。企画から参加者への連絡、運営と何もかも1人でこなし、大変だけど楽しくて、「サービス業で食べていきたい」と考えるようになりました。

それで会社を辞めて15坪のショットバーを開くのですが、田中に突っ込まれた通り、なかなかうまくいきません。土日も休まず働いても、家賃を払って開業資金を返済したら手元にほとんどお金が残らない。やってみて初めて、「飲食店ってこんなに大変なのか」と気がつきました。しかも私は下戸で、お酒の味もよく知らなかった(笑)。知識も経験もないまま始めたので、苦労して当然です。あのころは本当に無計画でした……。

お客さんは来るのに利益が出ない

ショットバーでの接客はとても楽しかったですが、休みもなく儲からず、新しい道を探らなければまずいと、具体的に計画を練り始めました。美味しい串カツの店がたくさんある大阪・西成区で育った田中は、父親が家で作ってくれた串カツの話をしながら、「次に店を出すなら串カツ屋がいい!」と言っていました。大阪のいろんな店に連れて行ってもらったら、確かに美味しい。そこで田中の父親の味、大阪で食べた店の味をどうすれば出せるのか、いろいろと試作してみましたが、納得のいく味になりませんでした。

それより、新しいもの好きの私は、最先端のデザイナーズレストランを作りたいと考えました。「次こそ成功したい」と計画を話すと、田中は会社を辞めて出店を手伝ってくれると言ってくれた。ここから、私たちの二人三脚が始まりました。
広告代理店という仕事柄、田中はいろんな飲食店を知っていたし人脈もあった。そのつてをたどって有名なデザイナーに設計をお願いし、大きな借金をして大阪の一等地にすっごいおしゃれなレストランを作りました。流行るための要素をすべて盛り込んで、勝負に打って出たのです。

開店の日、うわさを聞いた人々が列をなしていました。狙い通りに店は話題を呼び、連日、大勢のお客さんが来てくれました。ショットバーだった店も同じ形態に変えて、東京にも進出して京懐石の店を出しました。東京の店はすぐに有名な雑誌に取り上げられ、こちらも流行りました。周囲からは、3店舗の高級レストランの経営者として成功をつかんだように見えたでしょう。私が30代前半のころでした。

でもね、やっぱり当時は「経営」がわかっていないんですよ。デザイナーズレストランは最初の設備投資に莫大なお金がかかり、一等地で家賃が高かったので、いくらお客さんが入っても売上が支払いに回り、利益が出にくい。

マネジメントも大変でした。高級店は腕のいい料理人が命ですが、彼らは職人肌でなかなか言うことを聞きません。料理人のマネジメントに、結構な労力が費やされました。そうしているうちにリーマン・ショックが起き、接待で利用するお客さまが多かったので、売り上げがガクッと減り、キャッシュフローが回らなくなりました。典型的な、倒産するパターンです。

どうせダメならやりたいことをやろう

私は田中に、「会社はもう半年持たないと思う。大阪に帰る準備をしてくれ」と伝えました。そうして田中が引っ越しの準備をしていたら、なんと荷物の中から、父親が書いた串カツのレシピのメモが出てきたのです。ひとまず作ってみようと、レシピを再現したら、すごく美味しい。ここまで来たら失うものはない。どうせ倒産するなら、やりたいことを全部やってからだ。そう腹をくくって、串カツ屋の物件探しを始めました。

そうはいっても、倒産寸前のわれわれにはお金がありません。かろうじて出店できる物件は、東京・世田谷にある、繁華街から遠く離れた住宅街の雑居ビルの1階。もともとスナックだった14坪の居抜き物件です。前の店の人が残していったテーブルの上に板を貼り、パイプ椅子を置いて壁に木札のメニューを吊り下げ、驚くほど安い費用で店ができました。

うまくいくかどうかなんて、わからない。でもやれることはやろう。その気持ちだけで、2008年12月、串カツ田中1号店がオープンしました。

オープン当初の串カツ田中・世田谷店

流行る要素をつぎ込んだデザイナーズレストランと異なり、串カツ田中はまったく見通しがありませんでした。むしろ人通りの少ない住宅街で、東京の人になじみの薄い串カツで、不確実な要素だらけ。とにかく店を開けていたら、ぽつぽつお客さんが入り出し、段々増えていき、気がつくと店の前に行列ができるようになった。狭い店なので、外にビールケースを積み上げたテーブルを並べて待ってもらいながら、何ともいえない喜びに浸りました。

いつの間にか串カツ田中1号店は、「安くて美味しい」と評判になっていました。大衆的な雰囲気が安心するのか、子ども連れの方も多く来てくれます。月400万円の売り上げを目指していたのが、開店から半年後には倍の800万円に到達する月があるほど、繁盛しました。

初期費用の回収はあっという間で、月々の家賃も安い。しばらくは私が調理場に立ち、自ら串カツを揚げて人件費を抑えました。結果、利益率がものすごくよくて、売り上げがどんどん利益に変わっていく。

「これは、いままでと全然違うな」

これまで経営してきた店とは、明らかに手ごたえが違う。お客さんがどんどん来るという経験はありましたが、キャッシュが手元に残っていく感覚というのは、初めてでした。毎月出る利益で支払いをし、着実に借金が減っていく。中目黒に出した2店目も同様で、「このビジネスはいける」と思い、大阪のデザイナーズレストラン2店舗と、東京の京懐石1店舗は売却しました。

ここから、串カツ田中の快進撃が始まったのです。